プラネタリウム100周年(1)
室内に設置された投影機がドーム型(半球型)の天井に
星空を再現するプラネタリウム。
プラネタリウムは惑星や季節ごとに移り変わる星座など、
難しそうに思える天文現象をわたしたちにわかりやすく教えてくれます。
このプラネタリウムのルーツを遡ると、ちょうど100年前の
1923年10月のドイツにたどり着きます。
▲プラネタリウム100周年を記念する日本プラネタリウム協議会のポスター
19世紀後半から20世紀にかけて、ヨーロッパの産業や天文学は
目覚ましい発展を遂げていました。
ドイツの電気技師オスカー・フォン・ミラーは、
1881年にパリで開催された国際電気博覧会を視察後
「人々が楽しみながら科学技術を学ぶことができる博物館を」と
ドイツ博物館の創設を提唱します。
ミラーは天文学の分野について、
ハイデルベルグ天文台のマックス・ヴォルフに相談。
日ごろから「天文学の進歩の速さに人々がついて来ていない」と
感じていたヴォルフは「星空や惑星の動きを正確に再現する
機械を設置してはどうか」という提案をし、
当時天体望遠鏡や顕微鏡などを作っていた
光学機器メーカーのカール・ツァイス社を紹介します。
当初、ミラーとヴォルフが思い描いたのは
「半球状のドームを薄い鉄板で作り、鉄板に穴を開け、
周囲を明るくし、星のように見せる。
内部には太陽系の機構を組み込み、太陽・月・惑星が黄道に沿って動く、
中に少数の観客が入り天体の動きを眺める」などというものでした。
当時の製造工程から大きく外れるため、
当初製作を断っていたツァイス社でしたが、
ミラーやヴォルフの熱意により製作を始めることとし、
試行錯誤を繰り返します。
1914年、同社の経営陣の一人・ヴァルター・バウアーズフェルトが
「中央に投影機を配置し、ドームに星の光を投影すれば、
投影機の動きで星の運行を表現できる」という提案をします。
複雑で重い機械ではなく、小型化し、
恒星も中央の機械から映し出すというシンプルな方法を
とることで実現できるというものです。
それに賛同したミラーは、正式にツァイス社に製作を発注しますが、
その後第1次世界大戦のため中断を余儀なくされます。
戦後ツァイス社の技術陣は再び試行錯誤を繰り返した後、
製作不能と判断し発注を断ろうしましたが、
バウアーズフェルトがそれを止め、自ら設計を始めます。
▲ヴァルター・バウアーズフェルトが1920年に書いたとされる光学式投影機のメモ(画像提供:ZEISSアーカイブ)
ツァイス社に残る600枚を超える彼のメモのうち、
1920年5月5日の日付が残るメモ(画像)には、
プラネタリウムの基本的な構想がほぼ完成された形で
書かれていると言われています。
後に『ツァイスⅠ型』と呼ばれる投影機の完成後、
試験投影が繰り返されたあと、ドイツ博物館に移され、
ドイツ博物館委員会総会が開かれた1923年10月21日、
バウアーズフェルトのデモンストレーションによって
関係者向けに試験公開されました。
当時のツァイツ社の高度な技術を結集したプラネタリウムは
見る者すべてを驚かせ、これをツァイス社の所在都市・イエナにちなみ
『イエナの驚異』と呼んで絶賛しました。
そしてその日が、現代プラネタリウム誕生の
正式な初公開日とされています。
その後ドイツ博物館が開館した1925年5月7日から一般公開されました。
この地上に作られた星空は大きな評判を呼び、
5月から翌年の1月までに8万人もの人々が見学に訪れた
という記録が残っています。
この光学式の投影器は、その後100年の間にさまざまな改良が
加えられ現在のスタイルに至っていますが、
当時発案されたプラネタリウムの基本はいまだに踏襲されています。
第1次世界大戦の敗戦による混乱にもめげず、
プラネタリウムの製作を推進したミラーやヴォルフの熱意や想像力、
バウアーズフェルトをはじめとする当時のカール・ツァイス社の
技術者たちの苦労や努力に思いを馳せながら、
当館のプラネタリウムで再現される『地上の星空』を
ご覧になってはいかがでしょう。
なお、次回は日本のプラネタリウムの歴史を紹介します。
(参考文献:日本天文学会発行『天文月報2023年4月号』)
※室蘭民報2023年10月8日掲載